死にたくなるくらい悩んでも悩まなくても、東北の被災地に行ってみるのもいいと思う

先週半ばごろ、ステキなブログをみる。

就活に失敗して死にたくなるくらい悩んだらエジプトのダハブに行ってみるのもいいと思う。


いいなあ。エジプト。

綺麗だな。写真が素晴らしいな。

だけど、タイトルが気になったんだ。



就職活動で内定をもらえない学生が、自殺をするケースが年々増えているという。


就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に


ブログの筆者は、もしそんだけ苦しむんだったら、状況を打開するためにエジプトに行ってみたら良いのでは?

と、提案をしている。

僕も、筆者と同じくこのニュースを見た時(多分1年前くらいから言われてると思うんだけど)、就活をきっかけに若い命を捨てるなんて何てもったいないことなんだろう、と思ったものだ。


それで、自分に何ができるのか考える。

「死のうと思ってたけど、そんなのバカらしいなあ」

と見た人が思ってしまうような何かしら表現ができたら!

なんて素晴らしいことだなあ、と思って。

そんなことをやりたいなあ、と強く思って。

「大仏ちゃん」ってキャラを作ってみたいなあ、とか思って。


1時間もしたら忘れてしまって、エッチなビデオをみて寝てた。


ああ自分にはそんな夢があるからやらなきゃ、と思って会社辞めてニートになって。

社会につながらないのは精神的にしんどいなあ、と思って。

今は小さな会社に拾ってもらえて、何とか社会にしがみついている。


ちなみに当初の歌手になる目標はあるものの、ギターは2ヶ月くらい触ってない。



残念な人間だ。



それは僕の能力やメンタルの問題なのかもしれない。

だけど、こんなちっぽけな自分だからこそ、何か伝えたいんだ。

少なくとも、エジプトに行こうぜ!なんて、前向きに語るのは僕には無理だ。



他人から見られている感覚


僕が大学生で就活やっていた6年前。

時代はmixiだった。

ゴールデンウィーク頃には内定が決まった友達が状況を書き込み、周りの友達の就活の結果が手に取るようにわかった。



今はFacebook+スマホでより詳しくわかってしまうのだろう。

就活の状況どころか、周りの友達の生活すらわかってしまうのだ。

それは常に見られる、社会と常時接続できてしまう、ということだ。

そして常に他人と自分を比較できてしまう、ということだ。



冒頭のブログ著者は、世界一周をした強者で、僕には想像もつかない経験をしている人だ。

先日のエントリーでも書いたが、今日本人に足りないのは何もしない時間だと思う。常に日本社会と寄り添って生きていて、自分自身と向きあう時間が本当に少ない。高校を卒業したら、大学。大学を4年間卒業したら、就職、、と多くの人が決まった流れで生きている。結局のところ、自分の幸せや生き方は自分自身としっかり対話していかなければ、どうしてもズレがでてしまうと思うんだ。他の人の幸せが、その人の幸せだとは限らない。思い込ませているだけで。僕はその何もしない時間、自分と徹底的に向き合う時間は、一旦自分の普段いる環境を離れてみないとわからないものなんじゃないかと思っている。
(中略)
エジプトのダハブを勧めている理由は、海が最高に綺麗なことと、物価が安いことが挙げられる。上記に載せた写真からわかるように、海も、珊瑚礁も、魚も想像を絶するくらいに綺麗。気候もかなりいい。そして何より、凄まじく物価が安い。宿も円高のおかげで一泊120円くらいだし、複数人で料理をすれば、がっつり3食食べて一日150円なんて余裕。食も美味しい。そして、ダイビングのライセンスも3万円ちょっとで取ることができる。きっと、あの紅海の神秘を体験したら、自分の悩みがいかに小さいものだったか思わせられる。


青木 優の世界一周と日常と考察ブログ

的を得ている。けど、0か100の極端な話だなあ、と思った。

思い切ってエジプトに行けちゃうヒトは、悩んで引きこもって死を選んでしまうタイプではない可能性が高そうだ。



自分の悩みがいかに小さいものか。

雄大な自然を観て、解決するならシンプルな話だ。

自分自身と向き合うって解決する。

自己と徹底的に向き合って何かが生み出せる事もあるのだろうけど、


就活生のケースの場合は、他者や社会と向き合ったときの自分に対して、苦しみを抱えているのではないだろうか。



彼が言いたいのは「視点や価値観を変えること」である。

一例として、エジプトなんてのも良いよって言ってるのだ。

違う世界を見ることは必要だ、という話だ。



自分が社会が作ったレールから外れた時に、どんだけのものが待ち受けているのか。

それが想像できない。

だから恐怖に潰されてしまうのではないだろうか。


見られてるようで、見てる人はあんま興味ないのかもしれない


悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)



吉本隆明さんが、悪人正機という本の中で、こんなエピソードを話している。
職を失って、働き口を探している時に、知り合いの方に言われたセリフ。

「他人っていうのは、自分が自分で考えているほど、君のことを考えてるわけじゃないんだぜ」

もう、感心して。感心したっていうか、アッと思ってギョッとしたっていうか。


ITの発達で、他人の人生のことは見えるようになってしまった。

だけど、本当に興味を持たなければならないのは自分自身だ。

家族だって友達だって、自分の人生を生きるのに必死なのである。

家族や友達が多くて、どんなに学歴が高くて良い会社に入って、「いいね!」される回数やフォロワーがどんなに多くても。

人間というものは、本質的に孤独なのである。


ちょっと話はそれるけど、友達についても語る吉本さん。

よく「俺、友だちたくさんいるよ」なんて言うヤツいるけど、そんなの大部分はウソですよ(笑)。

結局、ほとんど全部の人が本当は友だちがゼロだと思うんです。

もちろん、人間には性格的に社交家の人とそうじゃない人もいますよ。

でも、社交家だからいいとか、そうじゃないと損でポツンとしてるってことはないんですよ。

結局、どっちだって同じ、どうせひとりよ、ということなんです。月並みだけれども人生というのは孤独との闘いなんですから。

悪人正機」より


ひとりなんだ、人生は。

僕はこれを読んだ時なんて辛いのだ、と思った。

やっぱり現実はそうなのだ、と思った。

悲しみのような、覚悟のような。

へんな感じだった。



就活に失敗して死にたくなるくらい悩んだら東北の被災地に行ってみるのもいいと思う。



さて、これを結論にするのも極端で、どうかと思うんだけど。

「環境を変える」というものの、一例としてね。エジプトより近いし。

解決方法はエジプトやそこで出会う人のような、自分より大きな存在を見る、ということ以外にもあると思ったから。


東北の被災地では、1年以上経っても未だにボランティア活動をしているNPO団体ってのがある。

そこに居る人の中には、3.11以降すぐに東北に入り、未だに現地にいるという強者もいる。

僕はそういう人の中に混じって活動をして、話を聞く機会があったが、とても面白かった。

彼らの意識の高さバンザイ!という話では全くない。

とても「普通の人」には真似できないなあと思った。



彼らは全てを投げ出しても大丈夫な人達だった。

反対に、元から守らなきゃならない居場所が、比較的無い人達だから動けたのだ。

震災前の社会に、居場所が無かった人達、とも言いかえられるのだ。


彼らは就活中の学生が求めている、「幸せになれる日本システム」に。

適合できなかった、興味が無かった、もしくは知りもしない、人達だった。


そういった人達と就活をする学生(就活→企業へ入社している多くの大人も含め)は出会う確立が低い。

せいぜいバイト先くらいか。



出会ったら今の悩みについて考えるかもしれない。

今まで自分が目指して来た社会システムに適合する行為って、本当に意味があるのかな?と。



出会ったら彼らについて考えるかもしれない。

この人達はお金がそれなりにもらえて、安定した暮らしができる社会システムに興味が無いのかな?と。



この辺をまとめてた時に、「はてブ」で見かけた記事がドンピシャで的を得ていた。

無意識に理想が高い人

これからの時代は特に、レールから外れて生きていっている人の存在を、もっと意識するべきだと思う。
本当は、大人がそういう人の例を、若者に提示して、「こういう生き方もあるよ」と言っておくべきなんだろうけど、若者が教育課程で出会う大人の中で、それができる大人がどれほどいるのかを考えると、今の日本ではかなり難しいと思うので、若者の側が、そういう大人の存在を意識しないといけないのが現状だと思う。

「こういう生き方もある」と知った上で、レールに乗っかる人生を選択するのと、それを知らないで、この生き方しかないと思い詰めてしまうのでは、かなり違う。

yuhka-unoの日記


自分が目指して来た人生とは違うものを目指している人がいるということ。

その存在を知っているのと、知らないのでは心の持ちようが違う。

現地に定住している「よそ者」であるNPOやボランティア、彼らが持っている価値観を知る事は大きな経験となるだろう。

*1


また、そういう所で出会う現地の方も皆さん前を向いている方が多い。

何にも無くなってしまったところに、何かを作ろうとしているのだから。

こんな時代の日本に生まれた若者だからこそ、今からでも何かしら参加するのは損ではないと思う。



エリート意識やら自意識やら

んで、最後に備忘録として、はてブで話題になってた文章を。

 地下鉄サリン事件の犯人たちや、心情的に共感する人たちに共通するのは(「魂」などではなく)肥大した自意識である。
もちろん、人生において「真善美」を追求するのは素晴らしい。
問題は、「真善美」の追求をタテマエにしながら、実態としては持て余したエリート意識をこじらせているに過ぎないということだろう。
(中略)
菊池直子容疑者については、逃亡生活の中で事実婚状態となり、普通の小さな幸せに目覚めたかのように報じられているが、私はそう素直には受け取れない。彼女も「ムダに学歴が高い」1人であり、オウム真理教にハマってしまうだけの肥大した自意識を持っていた。そんな人間が、月収十数万円の平凡で慎ましい生活に満足できるわけがない。
 誤解を恐れずに言うが、地下鉄サリン事件という“事業”が、彼女のエリート意識をある程度満足させ、解消したのだと思う。菊池直子容疑者はテロ犯になったからこそ、普通の小さな幸せの意味を知った。もちろん、そんな“自己形成”に付き合わされた被害者はたまったものではない。
 地下鉄サリン事件当時、私は日本社会における肥大した自意識の行方を心配したものだが、社会の各方面において、「エリート意識をこじらせた人たち」というのは年々問題になっているような気がする。高学歴化が進んだ割に(進んだからこそ?)人生観が貧弱というのが、現代ニッポンにおける「ムダに学歴が高い」問題である。
オウムとムダに学歴が高い問題

僕はエリートでも何でもないんだけど。

たとえば誰かの為になりたい、だとか。

少しでも世の中を良い方向に変えたい、だとか。

自殺が増える日本の若者を思いとどまらせたい、だとか。

そんな思いは菊池容疑者のような「肥大した自意識」なのかな、なんて思ってしまう。

「普通の小さな幸せ」が手に入ったら、「肥大した自意識」はあきらめられるのか?

確かにどちらも手に入れるのは難しいかもしれないけど、両方求めて苦しみ悩むのが現代人なのではないか、と思った。


社会から認められなくて苦しむ、というのも肥大した自意識であるのかもしれない。

今回の就活で悩んでしまう若者、というのも上記でいう人生観が貧弱ということになるのかもしれないけど。

「レールを外れちゃいけない!」という何となくの強迫観念=自意識がつきまとっているイメージだ。


レールにハマることだけに一生懸命で、意識がいってしまう。

レールを外れても生きていけることに、意識がいかない
*2


自意識と折り合いをつけ、客観視できるような能力がとても大事なのだ。

そういった意味で、自分の書いているブログは自分の経験を誰かに伝えたいと思って書いている。

自意識を発散?している意味でも、自分のバランスを取る存在となり得るかも、と思ったのだった。

どっかで自意識を捨てなくてはいけない日がくるのだろうな。


神とか仏にこんなん言われたら腹立つけどな!

*1:被災地では煙たがられてるNPOやボランティアもいるようなので、被災地で役に立つことや迷惑をかけないことが必要であるが

*2:生活保護の制度についても話題になるまで知らなかった自分もそういうことだ