ちびくろサンボのトラのように、とろけたバターになりたいのです

ちびくろ・さんぼ

ちびくろ・さんぼ


昔、ちびくろサンボという絵本を読んだ。

話の内容はぼんやりとしか覚えていない。

トラが木の周りをぐるぐると回転して、あまりのスピードでバターになってしまったという話だった。

なんだかすごい話だ。だから覚えてるのかな。



僕は、大人になった今、あの「バターになったトラ」に憧れている。

どうせとろけるんなら、あんな風に夢中になって、スピーディーにとろけたい。



仕事を辞めて、1ヶ月が経った。

何人かと会って話をする。

「良いよね自由で」「うらやましいね」といわれた。

まったくもってその通りである。あるあるネタも甚だしいのである。


だって、別に会社に行かなくても良いし、納期に追われる事もない。

自分の感情だけに左右された理不尽な言葉を浴びせられる事や、
進捗だけをひたすら追い求められるような電話もない。



なんて素晴らしい。これを自由というのか!



そう、月の半ばの10月15日くらいまでは、僕も本気で思っていた。


スピーディーにとろける



10月16日くらいから、身体がおかしい。


ほんとは自由になったら、驚くように身体が軽くなって、スーパーマリオでいったらパタパタの羽で下界の亀やキノコや大砲をあざ笑いながら、空を飛び続けられるものだと思っていた。



ただ、僕の身体は違うようだ。

とにかく胃が痛い。今までにない痛みだ。

羽は生えてこなかった。



仕事をしている時、得意先の担当者や、上司やスタッフや工場やら外注先やら、たくさんの人から追われた。

そして僕はその人達から逃げたのか、結果を追い求めたのかわからないけど、必死だった。

トラのように全力で走って、疲れ果てて溶けてしまうことは何回かあった。



電話メール打ち合わせ。色々な人と話を進めて、常に目的に向かっていたのだ。

僕の身体は、目的に向かってアクションを起こし、結果というリアクションを得る。

そのギブ&テイクが当たり前なように、社会から調教されていた。

なのに、この2週間は、わかってはいたけど誰からも命令も指示もない。

自ら動き出さないと、何も得られないのだ。



ゆるやかにとろける


ちょっと今までにない痛みだったので、医者に行くと、胃カメラを飲むことになった。

初めて胃カメラを飲む。

その際に、意識がもうろうとするような薬を飲まされる。


これがもう、猛烈に気持ちが良かった。人生最大。


世界がぐるぐると回る。自分自身はとろけていくような感じ。

もう何もかもどうでも良くなるのだ。

胃の奥の方まで管を入れられる。

それはもう、超気持ち悪いのだけども。

ただただ、ぜいぜい、はあはあ、言ってた。

クスリの効き目が切れず、もうろうとふわふわとしていた。


緩やかに溶けていく。もうどうにでもしてくれ、と身体が言ってた。


何だかよくわかんないけど、生と死の感覚を両方味わった感じ。



これぞパタパタの羽の世界だった。


・・いや、違う!俺の求めてた自由はこんなんじゃない!



ストレスフリーな故のストレス




結果、お医者さんは

「どこにも悪い所が無いむしろ良いよナイス!」

くらいなことを言ってる。「ストレスじゃないですか??」

と、大事な所をさらっと一言で片付けやがった。



僕には確信があった。

僕は、追いかけたり追いかけられたりして、「ちびくろサンボのトラ」のようにとろとろに溶けたいのだ。

身体があの時の快感を求めている。

あの快感をもう一度くれと、身体が言っているのだ。


クスリでゆるやかに溶けていく。

そんなのはもっと年取ってからで良い。(嫌だけど)


トラのようにスピーディーに溶けていく。

無意識に溶けちゃうような夢中さ。


自由というのは、そのような状況下であるからこそ、本当にありがたみがあるのだ。

毎日が自由だと、考える時間がありすぎる。

自分自身を見つめる時間がありすぎる



時間があると、いかに自分が他人と比べられるだけの価値が生み出せるのか、とか思っちゃう。

スーツ着てるサラリーマンなんて大抵、スーツ着てるそれっぽい人がいるだけで代替えがきく製品なのだ、なんて卑屈になっちゃう。



その是非は別として。



少なくとも僕は人とのコミュニケーションが無いと、身体がおかしくなるように調教されてしまった。

外的要因のストレスが足りない事に、身体はストレスを感じているのだ。

人間ってのはめんどくさいな、と自分の身体と治療費1万円を通して、勉強させてもらった。



はてな界隈



いかにして僕は心配するのをやめたか

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20111029/p1


自殺をしようとした時の話

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111030/1319904145



この辺りの記事を読んでいると、死と向き合ったことのある人の感覚がとても面白く考えさせられた。

「達観している」と僕のような小物がひとことで言ったら、すごく陳腐に聞こえてしまうけど。



この記事の流れからすると、スピーディーな溶け方に疲れて、ゆるやかになってみて、自分を見つめ直す。

そしたら、スピーディーなときの悩みなんてたいしたことないよって話。


生きるためにすき家を襲うのも、すき家で働くのも、まったく苦しみでしかないのだ。

リターンもないのに苦しみを得るとか、得なければならないと考えるのは、まったくもって意味がわからないことだった。

死んではいけないなどというのは、おろかな執着のカルトにすぎないのだし、まったくすばらしい自由を台無しにして、この世に絶望や不安をふりまくだけのことのように思えてならない。

世の中に必要とされていないと客観的にジャッジメントされているのに、なにか自分に価値があるのだというふりをしつづける執着というのは、少なくとも自分にとって耐え難いものだった。


〜いかにして僕は心配するのをやめたか 〜
◯内◯外日記 より

この文章、読んでて気持ちよかった。

今の自分がとても許されるような気がする。

きっとこの記事を読んだたくさんの人も、同じような気持ちになっていると思う。



僕はいつか、この文章に含まれている感情に気づくのだろう。



だけど、ひょっとしたらこの先、この文章がまさに我が意を得ていると感じて、
納得できて納得できて、もうどうしようもなく共感して、手帳の一ページ目に
その時の感情を綴って、毎朝見るみたいな日が来るとしても。



未来がそうだったとしても、明日も僕は執着する。

その先を見ることに価値があると、まだ思っているんだ。



僕はまだ、このような考えに至るほどの苦労などしてないのだ。



だから僕のブログは「達観」できず、ひたすら青臭いのだ。



今は執着に向かう、トラのように。

その先が、どうなるかは、本当にわからないや。

自分が得たい結果を追い求められるのなら、僕はトラのように溶けてしまうことを辞さない。

それくらいの決意や覚悟が、これからの僕のチャレンジには必要なのだと思った。